All this time

文字がいっぱい!

漠然、呆然、加熱式の魂

漠然と生きるのがしんどいなーと思う。

何がしんどいとかじゃなくて、漠然とただ思う。

キシ念慮と自殺願望の違いと同じだ。具体的じゃない。キシ念慮のほうのしんどい。

動くのが億劫で、ただただ脳みそだけが無駄に回転する。

歯車が噛み合ってないからただただ空回り。

いいことなんて何も思いつかない。悪いことだって思いつかない。

凪のような無を考え続ける。

それが心地良いわけじゃない。

けれどそれをし続けなければ私が死んでしまう気がして、私はそれをし続ける。

私はいつかこの思考の波に囚われて死ぬんだろうなーと思う。

 

死ぬなら静かに死にたいなーと思う。

けれど人間楽に死ねるのはほんの一握りで、殆どの人は苦しんで死ぬ。

私は多分、後者だろう。

一般的な人間になれなかったけれど、そういうところは一般的になりそうな予感がする。

 

私が人と違うところ。

それは常に死を間近に感じているところだと思う。

車が高速で行き交う車道を前にすれば「ここに飛び込んだら死ぬから飛び込んだらだめだなー」、電車のホームでは「ここは大抵の電車が止まるから上手くやらないと死にきれないなー」、歩道橋では「このまま階段から転がり落ちるのは死ににくいだろうし、上から車道に落ちるのが一番だなー」なんて考える。

たぶん、中学生の頃から考えていた。

これが自殺願望なのか、危険なことをやりそうになってしまう強迫観念なのかはわからない。

ただずっとそんなことを考えていたおかげで自然と死について考えを巡らす時間は多い。

 

死は、未来を無くすから嫌い。あるかもしれなかった、できるかもしれなかった出来事全部の可能性を潰す。

誰かが死んで悲しいのは、その人との未来を失ったから。

そう考えると、もう未来なんて希望が持てない自分に死は相応しいのではないだろうか。

私が死んでいないのは、私の周囲に私が死んで私との未来を失うことを嫌う人がいるから。ありがたいことに、環境には恵まれている。

恵まれていないのは、健全なセロトニン分泌。足りない。幸せが足りない。もっと満たされたい。

こんな、こんなお病気だらけな人生、いらない。