All this time

文字がいっぱい!

眠い

レクサプロを飲みだした。

心なしか吐き気と眠気がある。

けれど私は気圧変動で同じような症状が出るため、正直これが副作用なのか判別できない。今日は軽く雨が降った。背中が痛い。

ただひとつわかることは、いままでメンヘラ文学として楽しんでいた服用日記を"読む側"ではなく、"書く側"になったことだ。

もちろんODはしない。する勇気も必要性もないからだ。

私は曖昧な不安感と焦燥感と希死念慮があるだけで、死が迫りくるような恐れは有り難いことに今は抱いていない。

以前はあったが、今はそれを抱きたくないがために精神科に行くくらいの余裕はある。

いま、布団に入ってスマホでこれを書いているのだが、のどが渇いた気がする。

のどの乾きも、たしか副作用に入っていた気がする。

私はプラセボ効果バツグンに効くタイプだから、副作用欄を見て勝手に体がそう叫んでいる気もする。でも本当に副作用の気もする。

結局、私が感じている不安感も焦燥感も希死念慮も吐き気も眠気ものどの乾きも、私の主観的なものでしかない。

私は私の物差しでしか私の感覚を測ることができない。

もしかしたら私のこの不安感は誰もが抱えているもので、誰もが抱えたまま生きていける程度のものかもしれない。

ただ単に私のキャパが小さく、そして心配症なだけかもしれない。

結局、ひとりなのだ。私のことをわかってやれるのは。

咳してもひとり、吐いてもひとり、泣いてもひとり、不安もひとり。

死ぬとき、ひとりは嫌だなあと漠然と思う。

けれど、生きている間も結局ひとりなのだ。

それなら、死ぬときも当然ひとりなのだろう。

でも、走馬灯はひとりじゃなかったらいいなあ。

走馬灯くらいは「私はひとりじゃなかった」と納得できるようなものであってほしい。

考えてみれば、走馬灯とは不思議なものだ。

今までの人生の振り返りのくせに、一度きりしか見れない。やっぱり走馬灯の最後は死ぬ瞬間のこと、走馬灯を見ている瞬間なのだろうか。

それとも幸せな思い出で終わるのだろうか。

走馬灯を見ているとき、走馬灯を見ていると自覚できるのだろうか。

私は死に興味がある。怖いからだ。抗えないからだ。死んだら、あるかもしれなかった未来が、可能性が全て無くなるからだ。

死は0ではない。死はマイナスだ。


吐き気がする。厚い布団を頭までかぶっているのに寒い。

薬の副作用なんて知らずに生きていきたかったなあと思う。

精神的な病の苦しさも辛さも私はほんの少し、ほんのほんのほんの欠片しか分からないから共感はできないが、理解することはできる。そうなんだなあと教わることはできる。

ただ、共感を伴った理解はしたくなかった。

苦しい。この程度の精神不安定でも苦しい。将来が見えなくて、不安で心臓が冷たくなる。

理解なんてしたくなかった。理解なんてせずに、心が強くて心身ともに健康で、ハツラツと太陽の似合う人間になりたかった。

それが今ではこれだ。ひきこもりのためなまっしろい筋肉を感じない体に陰鬱としたキモオタクの登場だ。

まあ、これが私だ。これが私の選んだ道で、私はハツラツ太陽人間になる道を選ばなかっただけだ。

This is me. 仕方ない。受け入れよう。

この吐き気も眠気も背中の痛みも体の重さも寒さも不安も焦りも恐怖も全部私のものだ。

私が生産して私が消費する、唯一無二のもの。

まあ、仕方がない。こうやって生きるしかないのだ、結局。